仏教の存在論 ー空観・仮観・中観ー

存在しないことの苦しみ、存在することの苦しみ。

仏教というものが「存在」に対する苦しみにどういった考え方を提示しているか。

空観(くうがん)

紀元前5世紀頃に釈迦(ゴータマ・シッダールタ)が悟った真理の中に、「縁起(えんぎ)」というものがあります。

「縁起」とはその言葉からすこし想像できますが、この世の物事はそれ自体が単独で存在しているのではなく、他の物との関わりの結果、存在しているという考え方です。

例をあげると下のような感じです。

  • 土があるから山がある(山自体が単独で存在するわけではない)
  • 水があるから川がある(川自体が単独で存在するわけではない)
  • 木があるから森がある(森自体が単独で存在するわけではない)

では、この「縁起」の考え方をさらに突き詰めてみるとどうなるでしょう?

例えば、森は木の集合の結果ですが、木は葉や枝や幹から成っています。

葉を分解すると小さな葉になり、さらにその葉を分解すると小さな小さな葉になり、繰り返すことで、ほとんど大きさが無いような小さな粒子になります。それは枝や幹も同じです。

このように物事はそれ自体が存在しているわけではなく、何かの集まりでそう見えているだけ、という見方を「空観(くうがん)」と言います。

すべては、空(くう)であり、空(から)であるということです。

「空観」では、たとえ人間でも分解していくと、細胞のかたまりになり、さらに細胞を分解すると小さな粒子になることから、人間という物ものも単独で存在しないことになります。

ということを考えると、「空観」は物事の存在を否定するため、虚しさや無気力さという苦しみを生みます。

仮観(けがん)

物事はそれ自体は存在しないという「空観」に対して、空(くう)なる物事が、仮にそれ自体が存在するという見方をするのが「仮観(けがん)」です。

  • 山は山として単独で存在する
  • 川は川として単独で存在する
  • 森は森として単独で存在する

「仮観」では自分の好きな人間、それ自体が存在する喜びもありますが、一方で自分の嫌いな人間も、それ自体が存在することになるため、自分の嫌いな人間への憎しみにとらわれて、苦しむことになります。

中観(ちゅうがん)

「空観」と「仮観」の両方どちらも苦しみがあることが分かりました。

この二つの物事の見方で生まれる苦しみに対して、2世紀頃に龍樹(りゅうじゅ、ナーガールジュナ)というお坊さんが「中観(ちゅうがん)」という別の物事の見方を説きました。

「中観」というのは、言葉どおり「空観」と「仮観」の中間の物の見方です。

「仮観」では物事はそれ自体が存在しますが、それをさらに「空観」で見ると、「縁起」によりすべてのものが関係して「意味」があるように見えてきます。

たとえば、自分の嫌いな人間それ自体が存在する見方(仮観)をしますが、その嫌いな人間が働いたり、買い物をすることで、社会に税金が入ります

その税金が巡り巡って、それ自体が存在しない見方(空観)をしていた自分の好きな人と生活するための道路や橋に使われることになり、結果として自分の幸せに関係(縁起)することになります。

このように、「中観」ではすべての物事が存在して関係している見方ができるため、物事に「意味」を見出すことができます。

そしてこの「意味」によって、虚しさや無気力や憎しみなどで苦しむことなく、穏やかな心で過ごせるようになるということです。